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山中湖周辺の歴史あれこれ

【古事記】 ヤマトタケルは三国峠を越えた

『古事記』 の景行天皇条に、ヤマトタケルの尊(みこと)の事跡が出てきます。

・・・・悉に荒ぶる蝦夷等を言向け、亦山河の荒ぶる神等を平和(やは)して、還り上り幸で
ます時、足柄の坂本に到りて、・・・・其の坂に上り立ちて、三たび歎かして、「あづまはや」
と詔云りたまひき。故、其の國の名を阿豆麻(あづま)と謂ふ。
   【注】 あづまはや = わが妻、相模灘で身を投げた弟橘比売(おとたちばなひめ)よ。
 

即ち其の國より越えて、甲斐に出でまして、酒折宮(さかをりのみや)に坐しし時、歌日(うた)
ひたまひしく、
     新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
とうたひたまひき。爾に其の御火焼(みひたち)の老人(おきな)、御歌に續(つ)ぎて歌日(うた)
ひしく、
     日々並(かがな)べて 夜には九夜 日には十日を
とうたひき。是を以ちて其の老人を誉めて、即ち東の國造(くにのみやつこ)を給ひき。

源平時代もそうですが、関東から京都を目指す場合、山脈の連なりが邪魔をして、足柄峠か
碓氷峠の2つのルートしか、ありませんでした。『更級日記』のサラちゃんも、荷車を数台連ね、
足柄峠で野宿をしながら、通っていきました。『源平盛衰記』の木曾義仲追討軍も、足柄峠経由
です。
ヤマトタケルの尊の場合、 足柄峠→三国峠→平野→河口→御坂峠→酒折宮 でした。

『日本書紀』では、碓氷峠だったということですが、この時代に軍勢を率いて、群馬から奥信濃を
目指すほどの、地域の豊かさは無かったと思われます。