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★★ 和定食、手打ちそば、うどんの権七 ★★ |
【戦国時代】 関東三国志の戦いの影響は?
戦国時代の後期、甲斐では武田、小山田、北条、今川の勢力争いが繰り返され
ます。交通不便な時代、どのくらい戦いがあったか、勝山村の富士御室浅間神社
の『勝山記』によると、次の通りです。
明応4年(1485年) 北条早雲、籠坂に陣を張る。
文亀元年(1501年) 北条早雲、吉田城山、小倉山を占拠するが敗退。
永正6年(1509年) 武田信虎、川口を焼き、下の検断(小山田氏の代官)
を討つ。
永正13〜14年(1516〜17年)
今川軍、吉田城山を占拠し、12月激戦。翌年、退去。
このとき、農民達は戦火を逃れて、河口湖の鵜の島に退避。
大永6年(1526年) 武田信虎、梨の木平で北条軍を破る。
天文4年(1535年) 北条氏綱、都留郡に攻め込み、上吉田、下吉田を焼く。
天文6年(1537年) 武田信虎、須走口に出兵。
天文7年(1538年) 北条軍、夜討して、吉田宿を焼く。
山や坂を物ともせず、広範囲を自由に動いています。源平の富士川合戦の
直前の9月、武田信義軍は、信州駒ヶ根の太田切郷城まで行き、菅冠者を
討っています。
吉田の城山(じょうやま)も、小倉山(おぐらやま)も、砦も城もないけれど、
作戦の拠点として使われていたのですね。
コースを見ると、自由に籠坂峠を使っている。ううむ、いつの時代でも籠坂峠が
使えていたのかなぁ〜??