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山中湖周辺の歴史あれこれ

【戦国時代】 関東三国志の戦いの影響は?


戦国時代の後期、甲斐では武田、小山田、北条、今川の勢力争いが繰り返され
ます。交通不便な時代、どのくらい戦いがあったか、勝山村の富士御室浅間神社
の『勝山記』によると、次の通りです。

  明応4年(1485年) 北条早雲、籠坂に陣を張る。
  文亀元年(1501年) 北条早雲、吉田城山、小倉山を占拠するが敗退。
  永正6年(1509年) 武田信虎、川口を焼き、下の検断(小山田氏の代官)
               を討つ。
  永正13〜14年(1516〜17年)
           今川軍、吉田城山を占拠し、12月激戦。翌年、退去。
           このとき、農民達は戦火を逃れて、河口湖の鵜の島に退避。

  大永6年(1526年) 武田信虎、梨の木平で北条軍を破る。
  天文4年(1535年) 北条氏綱、都留郡に攻め込み、上吉田、下吉田を焼く。
  天文6年(1537年) 武田信虎、須走口に出兵。
  天文7年(1538年) 北条軍、夜討して、吉田宿を焼く。


山や坂を物ともせず、広範囲を自由に動いています。源平の富士川合戦の
直前の9月、武田信義軍は、信州駒ヶ根の太田切郷城まで行き、菅冠者を
討っています。
吉田の城山(じょうやま)も、小倉山(おぐらやま)も、砦も城もないけれど、
作戦の拠点として使われていたのですね。

コースを見ると、自由に籠坂峠を使っている。ううむ、いつの時代でも籠坂峠が
使えていたのかなぁ〜??