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山中湖周辺の歴史あれこれ

【明治大正】 伊豆の踊り子と馬車交通

時代の進歩の中で、失われる部分も多い。 『伊豆の踊り子』の場合、交通手段が
そうでした。川端康成と踊り子が出会い、同じ旅を重ねたのは、1918年(大正7年)
11月1日〜5日。 6日朝は、下田で船の別離となります。

一高の学生だった川端康成は10月31日に、軽便鉄道で 三島→大仁 と来て、
修善寺に一泊。 翌11月1日、湯川橋上で、踊り子一行を見かける。 ともに歩き
続けて、湯ヶ島2泊 → 湯ケ野2泊 → 下田1泊 でした。

土屋寛 『天城路慕情』 によると、踊り子の本名は千代子ではなく、たみ12才。
栄吉は兄でなく父であり、松本要40才、その妻ふく25才は後妻でした。
踊り子たみは、2年後に足尾銅山にて病没、と推測されています。

天城トンネルは、1899年(明治32年)の完成。道路の整備、交通手段の改革が
各地で進行中でした。 井上靖 『しろばんば』 を見ると、大正7年の時点で、
大仁→湯ヶ島 は1日数回の馬車便あり。
また、湯ヶ島→下田 は1日1回の馬車便で4時間。更に下田より先の小さな漁村
までも、1時間・1日数回の馬車便がありました。つまり、全国的に馬車利用が
展開されていました。

これが、大正8年4月になると、大仁→湯ヶ島 にバスが運行開始されています。
もう少し後だとバスの旅となって、伊豆の踊り子の旅情も、かなり割引されるとこ
ろでした。

さて、山中湖方面ですが、大月→小沼→籠坂峠→御殿場 を、馬が引く1両編成の
の馬車鉄道が1903年(明治36年)10月、全線開通。東富士五湖道路のあたりを
通って、国道138号線の籠坂峠に至るコースでした。
3つの区間を3つの馬車鉄道会社が運営し、軌道サイズが異なるため、乗り換え
2回が必要でした。

しかし、1902年(明治35年)中央本線が大月駅まで開通していたので、その便利
さに押されて、籠坂峠→御殿場 の御殿場馬車鉄道は、1929年(昭和4年)までに
廃業に追い込まれています。