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山中湖周辺の歴史あれこれ

【BC219年】 徐福伝説は都留まで来なかった


秦の始皇帝のために、不老長寿の仙薬を求めて、上海方面から東シナ海に乗り出した徐福と
いう方士がいました。 童女童子3千人、技術者多数を率いての大移動です。
この一行が無事、日本にたどり着き、霊峰富士がそびえ、鶴が美しく舞う山峡の素晴らしさに
感動して、仙境への到着を喜びあいました。都留郡の名前の由来です。

しかし、芭蕉が奥の細道を旅した1689年、お役人推薦の宿でも、米は持ち込み、おかず、風呂、
蒲団無し。 道があるだけ、いい。 (^_^;)  それから88年後の富田伊之の『奥州紀行』でも、同じ
状況でした。

ましてや、卑弥呼女王よりも400年も前の倭国。当然、道はない、宿もない、食料をくれる農民も
いない。 徐福一行は、船では行けても、陸路は無理です。
九州の有明海沿岸から上陸して、背振山系の南の佐賀平野に展開できたが、 四国にも近畿にも、
ましてや甲州には行けませんでした。

徐福一行の船出は、『史記』の著者である司馬遷にとっても、少し前の時期の公式記録であり、
出発の事実は疑えない。 出発地の江蘇省には徐阜村(徐福村)があり、系図を持った子孫が、
そこで代々暮らしてきています。
また紀元前200年頃すでに、上海方面と九州を往来する漁民達もいて、 海の向こうにどんな島
があるかの情報もあったので、徐福一行の九州定住は、ほぼ確実だったと思われます。