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山中湖周辺の歴史あれこれ

【源平時代】 富士川合戦の真実

源平時代の富士川合戦は、鎌倉幕府の正式史書である『吾妻鏡』では、源頼朝
が10月18日に黄瀬川に到着。これに同日、甲斐源氏である武田信義軍も合流。
10月20日、富士川に進出して、平家軍と対峙。夜襲をかけて大勝利、となって
います。

ところが、九条兼実の日記『玉葉』では、甲斐源氏軍4万が身延町方面を南下して、
10月17日に決戦場となる富士川川原に到着、平惟盛軍4千と単独に対峙。平家
側は、軍勢の差に怖れを抱いて、18日の合戦では、戦わずして降伏する者続出。
ほうほうの態で都に逃げ帰った、とあります。甲斐源氏軍はこの後で、黄瀬川に向
かい、頼朝軍に合流します。

源頼朝は、奥州征伐で有名な八幡太郎義家の彦にあたる。片や、武田信義も
義家の弟である新羅三郎義光(=甲斐源氏の始祖)の彦にあたります。

平家が壇ノ浦で滅亡する1年前から、甲斐源氏の主力は、頼朝からの難癖により
粛清されていきます。その結果、歴史書からも、甲斐源氏の富士川合戦の功績が、
頼朝軍の功績にすり替えられてしまったようです。
頼朝は、源行家(叔父)や源範頼(弟)なども、用済みということで、たいした理由
も無く殺していますので、可哀想なのは義経だけではなかったわけです。